年の離れた妹は私と母の子供です


結婚して8年、32歳の妻と6歳の娘と3歳の息子を持つ35歳の会社員です。
現在、57歳の母と、年の離れた20歳の妹と、6人家族で暮らしています。
実は、20歳で女子大生の妹は、私と母の子供なんです。

母は、生まれてすぐに両親を亡くし、貧しい祖父母に育てられ、高校を出てすぐに就職した先で父と出会い結婚、22歳で私を産みました。
悪いことは続くもので、私が小6の頃に父が他界、私が中学1年の時、母はずっと独身だった父の弟、つまり叔父と再婚、しかし、叔父は変態のゲイでした。
叔父は母ではなく私を狙い、私は中1で叔父にアナルヴァージンを奪われました。

まだ12歳の私は、訳も分からずまだ全部毛も生えそろわないペニスを扱かれ、その快感にアヘアヘしているところをアナルを犯され、惨めな射精をしていました。
叔父のペニスが私のアナルを出入りするとき、永遠に排便し続けているような妙な快感を覚え、やがて私はアナルの快感に目覚めていきました。
男子中学生がアナルを犯され、女の子みたいにアンアンと喘いでいたのです。
前立腺を突かれて、ツーンとする独特の快感の中、叔父に扱かれほぼトコロテンおように射精しました。
まだ性的に幼くても、されていることの異常性は感じました。

再婚した叔父と母は、周囲から子供を望まれました。
そこで叔父が取った行動は、母を縛り上げ、私に母を犯させる母子姦淫をさせ、母と交わる私のアナルを背後から犯すという鬼畜の所業でした。
はじめは激しく抵抗していた母でしたが、やがて愛する息子との情交に溺れ、自ら腰を振るようになり、縛られなくても私を求めるようになったのです。
やがて母の子宮には私の子が宿り、私が中3の時に妹を出産したのです。
妹は、叔父と母の娘としてこの世に誕生しましたが、私と叔父も血縁者なので、妹はそこそこ叔父にも似ていて、誰も叔父と母の子じゃないなどと疑う者はいませんでした。

その後も私と母の情交は続きましたが、母の安全日以外は外に出すようにしていました。
私が高校2年になると、叔父は単身赴任になって遠方へ赴任し、私と母は誰にも邪魔されずに愛し合っていました。
男子高校生の旺盛な性欲と、アラフォーの母の性欲はとどまることを知らず、毎日複数回交わっていました。
アラフォーの母の身体はとても柔らかく、オマンコはドドメ色でしたが中は暖かくてよくペニスに絡んで最高でした。
母が安全日になると、母は私に跨ってグラインド、息子の精液を搾り取ってイキ狂いました。
中年の母の色っぽい身体と喘ぎ声、揺れ彷徨う乳房を眺めて、私は若くして女体の扱いを学んでいきました。

叔父は盆と正月以外は帰って来ず、私が大学を卒業した年に、赴任先で児童を犯して逮捕され、母とは離婚しました。
叔父は、数人の男子中高生を愛人にしていましたが、エスカレートして小学男児に手を出し、検挙されたのです。
このことが原因で、私たち家族は父方の親戚と疎遠になりました。

私は、大学時代に彼女ができましたが、家では母とも関係を持っていました。
ですが、結婚してからは・・・娘の出産時に母を抱いて以来、もう母子姦淫はありません。
6年前、閉経した51歳の母を毎晩抱きました。
当時中学生だった妹に喘ぎ声を聞かれないよう、母は声を押し殺して快感と戦っていました。
母の黒々としたラビアがめくれ、母の緩みかけた女体が波打ち、年齢を重ねた顔で喘ぐその姿を見たとき、五十路でも女なんだなと思いました。
母のヴァギナに根元までペニスを挿し込み、奥深くへ精液を解き放つとき、愛する息子の精液を注がれる母親という最高の母子愛に、満足そうな表情をしました。
黒々とした母のラビアの間からこぼれ落ちた白濁した精液とのコントラストは、今も目に焼き付いて離れません。
妻の妊娠出産時の数か月、100発くらい母の子宮に息子精液を注ぎました。
もう、二度とない母子姦淫の思い出は、墓場まで持っていきます。

妻は、私と母と妹が稀に見る仲良し家族だといいます。
しかしそれは、私と母の間には親子だけでなく男女の愛が、私と妹には兄妹だけでなく親子愛があるからだと思います。
そして、その秘密を知る私と母以外の唯一の人間、叔父の訃報に触れたから、ここに吐き出させてもらいます。

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みんなのコメント

1 名前:名無しさん2021年07月18日(日) 17時52分38秒

すごい、本当にお母さんが好きなんですね。

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