「念友との初夜 Ⅰ」


《男の契り》
「初夜」とは云っても実際には 五月末の昼下がり数時間のことだった。
私は‥彼Hにリードされて 七十歳を過ぎて初めて、しみじみと男の肌を味わうことが出来た。聊かの緊張はあったが 格別の、ドキドキするような昂奮や 上気して無我夢中になることも無かった。
ただ久し振りの 素肌の感触が快く、これまで永年‥あぁかこうかと想像していた 男同士の身体の結び付きが、具体的な現実になり 疑問に思っていた殆どが腑に落ちた。
事実‥全裸でヒドイ形もしたが 自己嫌悪に陥らず、全く‥後悔も してい無い。

私は 自分のバイの性向について、若いときから 意識はしていたが、男性に対する興味には のめり込むと社会的に脱落者になる恐怖を感じて、つまり‥臆病で これまでその興味を抑圧して来た。
先に訣別した50年来の学友とも そう云う意味では動機不順での接触だったが、せいぜい普段は 時々会って映画を観たり、食事をしながら 駄弁るだけだった。
だから山歩きの夜‥ 温泉宿で抱き合って寝たのだってハップニングで、太腿を摺り合わせたとはいえ 浴衣の寝巻きでパンツは穿いたままだった。

それが年を取って 人生も先が見えて来ると、古今東西の 男色・同性愛の歴史に照らして、〝自分はソレを 自身に体験し無いで死ぬのか‥〟と 聊かご馳走を食べ損なったような口惜しさを思うことがあった。
そして最近では もう‥老いさらばえ、顔に皺は寄り 尻の肉が弛んだこの身体では、そんな機会も無いし それを経験してみよう‥という気など全く無かった。
ところが‥人生って面白いもので これだけ性の情報が世の中に瀰漫して来ると、妙と云うか 有り難い性向を持つ人種が現れて来る。曰く‥ 「フケ専」である。

それでも私は その存在を、真面には 信じようとし無かった。少なくともそれは 私自身に係わる問題では無かった。
一方‥私は 暇に任せて呂愚楽文庫(ろぐらぶんこ)に助平資料を集め、マラも勃た無くなったので せめてそれを読み合い、猥メールを交信するメル友を ゲイのジジイの告知板で募集してみた。もちろんそれには ブログの「茫々録・鶏肋抄」を広告し、それに対するコメントを求め それも話題にして話しましょう‥と呼び掛けた。
その呼び掛けには 6人の方がメールを下さり、もちろん私は その総てに回答した。

しかし結局‥ 心を惹かれ交信が続いたのは二方で、やがてその二方との 本音の愉しいメールの交換が始まった。
とどのつまり‥ ひと方とは深いオシリアイになり、もうおひと方には その経過の惚気話の聞き手と云う、割の悪いお役目を押し付けることになった。
私には〝書きながら考える〟と云う 面倒な癖があり、心安立てに 相方にも聞き手にも、その纏まりの無い文章を 読ませてしまっている。でも‥私にとって そう云うお二人が居られるということは、大変に 貴重なことと思っている。

あと‥続くⅡとⅢでは その念友との初夜の経緯を、お二人への ビフォー・アフターのそれぞれのメールを、匿名にするだけで そのまま引き写したいと思う。
考えてみたら‥それが 私とお二人との関係を良く判って頂ける方法のように思えたのである。毀誉褒貶が それぞれの価値観で異るのは承知している。これをお読みなった方は どんな酷評でも結構ですから、是非とも コメントを頂きたいと考える。
最後に 蛇足のようですが、私が育った時代の 歴史上の「男色・同性愛 観」を付記して置く。お読みになる方に 少しでも私と云う人間を判って頂きたいためである。◇

《私がこの年までに気を惹かれた 歴史の中の男同士の絡み‥》
・日本の最古の男色の記録は 「古事記」の熊襲を刺した色白の美少年‥日本武尊だと云う説がある。判り易く女装をにしているが 確かに美少年の方が画になる。
・また「日本書紀」においても 権力者の男色を示す話が見られる。
・「万葉集」には 歌人大伴家持が、愛する美少年に送った歌がに収められている。つまり男色は 少なくとも奈良時代には存在していたのだ。

・古代ギリシアの哲学者・プラトンは 「饗宴」(178e~179a)に、「同性愛の恋人同士がペアを組めば 最強の戦士になる」と言っている。
・古代ローマの英雄・カエサルは、エジプトの女王・クレオパトラを恋人にした。しかし彼は、小アジアの王国・ビテュニアの男王・ニコメデスの恋人でもあった。

・「旧約聖書」で同性愛を批判している箇所は、「レビ記」の中の2箇所だけだ。
具体的には 「女と寝るように男と寝てはならない。それは厭うべきことである」‥、と「女と寝るように男と寝る者は、両者共にいとうべきことをしたのであり、必ず死刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当たる」と言っている。
・「新約聖書」の中では イエスの又弟子のパウロが、3箇所‥ (「コリントの信徒への手紙」6・9~11),(「テモテへの手紙」1・9~10),(「ローマの信徒への手紙」1・26~27)で、同性愛を批判している‥ と言われている。

・空海は幼いとき 稚児(ちご)と言われる少年だった。稚児の彼らは もともと貴族の子弟で、成人まで学問修行をしながら 寺の召使いとして働いた。一般の僧と違い 有髪なのが特徴で、彼らの多くが 僧侶の男色の相手となった。

・著名な藤原時代の権力者 頼長は、藤原一族の人間で 左大臣まで出世している。彼には『台記』という記述があり 夜を共にした男について多くの記述を残している。

・源義仲(木曽義仲)の父親は その頼長と、平清盛の父は 白河天皇と関係があった。

・後に鎌倉幕府を開く事になる 源頼朝にしても、少年時代に後白河帝(崇徳帝の弟)の相手をしていたと言われる。

・室町時代で有名なのは 3代将軍の足利義満で、彼は 猿楽師(さるがくし)の世阿弥を寵愛した。

・戦国時代では 織田信長と前田利家または森蘭丸、徳川家康と井伊直政、武田信玄と高坂昌信などの関係が知られており、近年 信玄が昌信に送った恋文が発見されたし、伊達政宗が只野作十郎(小姓)に送った その手の書状も現存する。

・中でも突出しているのは 上杉謙信である。彼は生涯妻を娶らず、家には子供が生まれ無かったので 甥の景勝が後継者になった。しかし周りには常に 美しい小姓がいたという。知勇兼備の将として知られる直江兼続も その相手の一人だった。

・このような時代に 男色に全く興味を示さなかったのは豊臣秀吉である。大の女好きだった為か 武家の生まれで無かったせいか、いずれにせよ彼にとっては 男に惹かれる風習は無かったようだ。

・16世紀は 日本にキリスト教が伝来した時期で、欧州の宣教師が 海を渡って日本を訪れた。彼らカトリックでは 同性愛が禁止されていたので、男色については 「非常に野蛮で、文化レベルが低い」風習と考えた。

・徳川時代で有名なのは 徳川家光と堀田正盛(家光の死後、殉死)や阿部重次(同じく家光に殉死)等である。

・堀田正盛は 少年時代に3代将軍家光の小姓になり、数え13歳で「お座直し」となる。「お座直し」とは寵童として寝所に侍り 「夜伽」をすることである。いわば花嫁同然に 毎夜求められれば身体を捧げるのだ。このとき家光は17歳で 丁度旧制中学1年生と5年生の年頃に当たる。

・下って 5代将軍綱吉のとき、かの柳沢出羽守吉保は 小姓として少年時代を過ごした。7才でお目通りし 12歳のときからお側に仕えた。このとき綱吉は24歳で 直ぐに「お座直し」となる。「お座直し」になった美童の小姓は 夜伽中‥将軍に抱き抱えられ、愛撫を受けるために 帯も下帯も解かれる。今と同じで 体中に口付けもするし、一節切り(ひとよぎり:フェラチオ)もどんな愛撫でも 勿論逆らうことはできない。そして菊門に 将軍の肉茎を受け入れ、将軍が達して放つ精を 菊門深く受け止めて契り合うのである。

・市井では 井原西鶴は「好色一代男」を書いたが、主人公世之介は女性3742人、男性725人と関係を持った。
・また西鶴は「男色大鑑(なんしょくおおかがみ)」書を残している。
・また数多くの名句を残し 俳聖と称される松尾芭蕉も男色家であった。

・「日本三大仇討ち」‥ の内の、
「忠臣蔵」のモデルになった 1703年の元禄の赤穂藩主刃傷事件には、江戸城松の廊下で 浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかった理由には諸説がある。
その一つに 「側近の小姓の遣り取りの縺れ」がある。即ち‥吉良が 浅野の小姓に横恋慕し、「譲ってくれ」と頼んだが 無下に断わられたというのだ。

・荒木又右衛門の 三十六人斬りで有名な伊賀の仇討ちも、池波正太郎は‥その創作に 幼少からの二つ年上の念友、河合又五郎との 経緯が絡むと書いている。又右衛門の妻の 下の弟‥渡部源太夫が、主君池田忠雄の側小姓になり その寵愛を受けて驕慢に奢り、又五郎を袖にしたのが 原因だと云うのである。これだと池田侯が たかが小姓の争いに烈火の如く怒って、上位討ちを掛けた理由も 判るのである。

・やがて幕府は このような念友や義兄弟を禁止し始め、社会からは男色が退潮するが、それは無くなったのでは無く 密かに潜在するようになったのだ。

・有名な十返舎一九が書いた滑稽本 『東海道中膝栗毛(1802年:享和2年)~(1814年:文化11年)』には、弥次郎兵衛と喜多八‥いわゆる「弥次さん喜多さん」という 二人組が登場するが、そもそも旅の始まりは 彼らの男色関係にからの駆け落ちだった。

・薩摩には鎌倉,室町から続く 武士道的男色が残っていた。
藩士となる若者達は 地域毎に「二才(にせ)」と「稚児」に分けられる。二才とは元服から妻帯までの14~20代半ばの青年、稚児は元服以前の少年を指した。
二才は稚児を指導する立場で 稚児は他の地域の二才と接する事は禁じられた。
女性との接触は以ての外で 「道の向こうに女が見えたら、穢れが移るから避けろ」という教えが普及していた。
二才と稚児が男色の関係になったのは ごく当然の成り行きと云える。
幕末の英雄である西郷隆盛も ある僧と関係を持っていたと云う。「九州男児」と云えば男らしいことの代名詞だが 確かに当時の薩摩は男らしかった。

・その薩摩に負けず‥男色が一般的だった と云われるのが土佐である。
武士の少年であれば 「男色の契り」の意味を知らぬ者はい無かったという。
もし男色を拒む少年がいると 年上の者が徒党を組んで家に押し掛け、その少年を捕まえて その場で強引に侵した。それには 隣室に父母兄弟がいても一切構わず、また家族達も 見て見ぬ振りをした。恐ろしい 話である。

・明治維新が起きて 薩摩の人間が東京へと流れ込むと、社会の一部‥学校 特に全寮制の男子校で男色ブームが吹き荒れた。
それは盛ん且つ 公然化したものであったようで、市井には 実話を基にした「三五郎物語(しずのおだまき)」という本が大人気となった。
内容は 薩摩藩士吉田大蔵と美少年吉田三五郎の情事が描かれていて、男色道におけるバイブルになった。
当時から 異性の事で頭がいっぱいの生徒を軟派と呼び、少年愛を好む生徒は硬派と云った。入学してきた美少年は 早晩‥硬派に身体を狙われる運命にあった。

・もう一つ男色が流行したのは 軍隊であった。明治後期に ある政治家が書いた手記には、「男子同性愛が 兵士や士官の間に非常に蔓延している」ことが記され、多くの兵士達が腕を組み手を握り合って 通りを歩いて行く姿を見掛けたと云う。

・昭和に入ってからの 軍隊での男同士の「契り」では、例えば‥陸軍幼年学校(13歳で入試、全寮制)の寮では 70年の伝統として男色行為が行われていた。
その時1年生は痛さに涙を流すが、声を出してはいけないのだそうである。
寮は1年から3年まで二人ずつ計6人、3年生(今の高一)両隅、2年生は真ん中、1年生は2年生と3年生の間に一人ずつで、1年生を愛でるのは3年の特権だった。
3年生は1年生を稚児とし 契を結ぶ権利を持つ。2年生は 2年生同志で契り合う。幼年学校では自慰は禁止で 精液の付いたパンツを洗っていると咎められたという。

・民俗学者フリードリヒ・クラウスは この報告を読み、「兵士の激しい愛と絆が力となり、日清・日露戦争の勝利へ繋がったのでは無いか」と 推測している。とは云え‥日本に限らず 軍隊における男色は珍しいものでは無い。それは古代エジプトの軍隊が 「世界最古の男色」として認知されていることでも明らかである。

しかし男色ブームが続いたのは せいぜい半世紀ほどだった。大正の半ばには 公然には時代遅れと目されるようになった。西欧化・自由化が進む中で 封建制の抑圧の中での、体制に添った共存意識も薄れ 男色は個人的な性向の充足になって行った。
その傾向は 政府には好都合で、国際社会で列強と比肩する中で、男色の公然たる存在は 不都合だった。当時‥男色は 「文化レベルの低さ」を非難される基になった。そしてそれ以降‥第二次大戦での敗戦まで 男色は深く潜行するようになった。(終わり)
[http://gachapin99.blog48.fc2.com/blog-entry-252.html:続ガチャピン随想録:男色の研究]・[ウィキペディア(Wikipedia)]等 を参考にした。 (茫々録・鶏肋抄 より) ◇

 

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続き:  「念友との初夜 Ⅱ」

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