【妻が鳴らすウェディングベル:教会からハネムーンへ旅立ち】
ブライダルの参列者に対する「二人の歩み」を描いたプロモーション用の上映は終わりました。天井から降り注ぐシャワーのように参加者の拍手と歓声が起きました。プロモーション用のビデオにしては現実味を帯びた構成に何やら不安が迫まってきます。
妻と見知らぬ男の結婚式。私は沈黙を守るしかありません。教会から控え室へ新郎新婦が退場するときも愛されていことを自覚した自信に溢れた満面の笑み妻は私と視線を合わせることはありませんでした。
やがてスタッフから控室棟に戻っていった酒井と妻が車寄せへ出てくるというので参列者に押されるようにホールから移動しました。車寄せには真っ白いレクサスが停められています。この時には何も考えられません。
ウェディングウエアから着替えた二人が姿を現しました。濃紺のパンツに淡いブルーのジャケットを着こなした酒井と、同じく濃紺のワンピースに淡いブルーのカーディガンを纏った妻。
妻のヘアースタイルはウエディングドレスの時の一部をディップで固めたタイトシニヨンから普段のふわりとしたセミロングへ戻っていました。メークも変わっていましたが私が知っている妻の化粧より明らかにエレガンスです。特に頬の薄いピンクのチークが笑顔を一層引き立たせます。
シャワーしてきたのでしょうか?二人とも教会の中よりも遥かにさわやかな雰囲気を漂わせています。
「わーっ!素敵!!」参列者から一斉に歓喜の声があがりました。どこから見ても「幸せな夫婦」です。
スタッフから「それではお二人はこれから新婚旅行に出発されます。新郎・酒井達也様から皆様にご挨拶です」
新婚旅行??これもプロモーションなのか?
「僕は由美と知り合ってから、たくさんのことを考えた結果、残されたこれからの人生を,優しく思いやりにあふれた由美と歩んでいきたいと思いました。そのことを由美に伝えました。彼女もたくさんのことを考え自分の本当の気持ちに気づき了解してくれました。お互いがお互いを必要としていることが確認できたことから本日を迎えました。これまでもそしてこれからも由美のすべてを受け止め彼女は僕が守っていきます。本日は誠にありがとうございました」
「続いて新婦・酒井由美様からご挨拶です」酒井の少し後に控えるようにしていた妻が笑顔と目に涙をためながら挨拶を始めました。
「達也さんからプロポーズされたときは、驚きと共に、心の底から自然に湧き出てくる嬉しさ、愛されていることと守られていることを実感できることが、私にとってどれほど幸せなことかと思ったら涙が止めどなく溢れました。これからは酒井由美として、達也さんの妻として、生きていきたいと思います。私は今とっても幸せです」
「おめでとう!」「お幸せに!」出席者から一斉に祝福の声が沸き起こりました。
妻の満面の笑みと輝いた瞳に溜めた涙は一体何を意味しているのでしょうか。お互いを由美、達也と呼び合うことに違和感がありません。誓いの口づけまで交わしてこれは本当にブライダル用にプロデュースされた「結婚式ごっこ」なんだろうか? 不安が心のそこから滲み出てくるようです。
挨拶のあとはスタッフに促されて酒井は白いレクサスの運転席に、妻は助手席に乗り込みました。
そのまま車内の二人は会釈しなから車は発進していきました。
その時一瞬だけ妻の視線が私に向けられました。式が始まってから初めて私に向けられた眼差しでした。すぐに眼を閉じ微笑みながら軽く会釈して視線は別方向に切り替わりました。その時私の脳裏に浮かんだのが、お世話になりました。さようなら、、。というように、、、、
再び出席者から「おめでとう!いってらっしゃい」の祝福の声があがります。残されたのは参列者の騒めきとその後の静寂、そして混純とした意識の私でした。
最後にスタッフから「では本日の結婚式にあたり皆様へ新郎新婦からメッセージブックをお預かりしておりますのでお渡しいたします。どうぞご覧ください。これにて予定された内容は完了です。ご協力ありがとうございました」
渡された布製のバインダーを開くと右側にはウエディング姿の頬を寄せ合った、満面笑みを浮かべた「新郎新婦」の写真がありました。妻の笑顔は何の迷いもなく、新郎に身も心も委ねた花嫁の表情そのものです。
見開きの左側には挨拶文がありました。
「私たちは今まではそれぞれに別の道を歩んできましたが、偶然の出会いから、時間を重ねるごとにお互いがお互いを人生というパズルのピースとして必要としていることに気がつきました。もちろん様々なことを考えた上で共に歩み始めることを決意いたしました。私たちのこれまでの人生は、とても将来の幸せな展望などイメージできない状態でしたが、しかし、出会ってからはお互いに笑顔の連続でした。私たちは二人でいることで明日を、将来を信じられるようになりました。
熟年といわれる年齢に差し掛かるふたりですが、これからの人生を成熟した実りあるものにしていきたいと思います。今日から私たちは新しい一歩を踏み出します。
本日は私たちの新しい旅立ちに日にお集まり頂き心より感謝いたします。
どうかこれからも暖かく見守ってくださいますようにお願いいたします。
新郎:酒井達也
新婦: 由美 」
一体なんなんだ!
でも「結婚式CM撮影」は終わりだな。最初は妻は車で一回りして帰ってくるんだろう、くらいに思い、スタッフに「由美はいつ戻ってきますか?」と聞いたら怪訝そうな顔で「新婚旅行のセッティングは旅行社ですから詳しくはわかりませんが国内で3日間と聞いています」
「えっ!?」
「ではこれで失礼します」というと怪訝な顔をして建物へ戻ってしまった。
結婚式ごっこだとすれば新婚旅行なんかあるはずがない、と解釈しましたが心の中は不安が駆け巡ります。
由美の携帯に電話してもでません。
しばらく教会のエントランスで待ったが参加者や撮影スタッフはいなくなって私ひとりだけが取り残されてしまいました。
呆然と立ちすくむ私の携帯に着信が!由美か!と思って確認するとそこには県外在住の長男の名前が表示されていました。不安、焦燥。交じり合った意識のなかやっとの思いで電話にでました。
「もしもし。孝憲か、」
「うん、お父さん、うちに帰ってきてくれないか」
「どうしたんだ!お前、三鷹にいるのか?」
「いま、三鷹に向かっているんだ弥生も一緒なんだ」
「何があったんだ!おかあさんのことか?。何か知っているのか」私の気持ちが大きく揺れました。
「とりあえず家で待ってるから」
そういうと孝憲は電話を切りました。
不安を抱えた私は自宅まで戻ったがどのように戻ってきたか記憶がはっきりしません。
自宅のドアを開けると男物の靴と女物の靴がきれいに並べられていました。リビングへ入ると長男の孝憲と長女の弥生がいました。
「どうしたんだ?いったい何があったんだ」
私の問いに孝憲が、「お父さん、少し話があるんだ。ここに座ってくれないか」
弥生は無言で私を拒絶するかのような、何かを決意したような、血の気が引いたような青白い横顔で、下を向いたまま視線を合わせようとしません。
嫌な予感が潮が満ちてくるように押寄せてきます。
孝憲がゆっくりとした落ち着いた口調で言った「お母さんのことなんだけど。今日結婚式に行ってたでしょう。実はあの式はブライダルフェアのプロモーション用でもあるけど、、。酒井さんとお母さんの本当の結婚式だったんだよ。お母さんは別の人の奥さんになったんだ。お母さんはもうこの家には戻ってこない」
「なにを言ってるんだ!そんなバカなことがあるか!どういうことだ!俺は許さんぞ!」私は思わず大きな声をあげてしまいました。
すかさず長女の弥生が「パパにそんなことをいう資格はないわ。パパに別に長く付き合っている愛人がいることはもうみんな知っているのよ。」
続けて孝憲が「お母さんがお父さんの不倫を知ったのはまだ僕にも弥生にもお金がかかるころだった。だから悔しい思いもしたけど僕たちのために我慢したと今年の正月に帰省した時に話してくれた。お母さんがお父さんの不倫を初めて知ったのはお母さんの同窓会の時だったそうだ。一次会は高輪だったけど2次会は池袋まで大移動したところでお父さんがラブホテルから女の人と腕を組んででてくるところを目撃したんだ。それはショックだったと。お父さんはお母さんが高輪だと油断したのかな、と言っていたよ。
弥生が「パパは酒井さんと今日会ったでしょ。でも酒井さんはパパが来ていることは知らなかったの。ママがパパを呼んだのは不倫をしていたパパに対するママの復讐だと思う。自分がこれから心から信頼して愛することができる人との幸せな姿をパパに見せつけたかったんだと思うよ。同じ女同士だから私にはわかるわ」
式の前までの「いままでどおりの妻」は何だったのでしょうか。「きょうから私はあなたの見知らぬ男の妻になる」などみじんも感じさせなかった姿は本当の結婚式だと私にわからないようにするためのカムフラージュだったのでしょうか、あるいは私の苦しみをより深くするための作為だったのでしょうか?
孝憲が続けて「お母さんはお父さんが離婚に応じなくてもこれからの人生は酒井さんと一緒に生きていくといっているよ。酒井さんも形式にはこだわっていない。そしてこれからの事はどんなことがあっても全て自分が受け止めてお母さんを守っていくと」
孝憲が自分の考えを述べた「僕も弥生もお母さんの意志を尊重したいと思う。酒井さんは10年くらい前に離婚してそれ以来独身なんだ。今は45歳。お母さんより6歳歳下だね。それから信じるかどうかはお父さんの自由だけど、昨日までお母さんと酒井さんは男女の関係にはないんだ。結婚式を挙げた今夜の新婚旅行が初夜になる。その後一緒に住むそうだよ。母親の初夜をお父さんに告げるのも変だけど、でもお父さんは今も愛人がいるからお母さんのことは非難できないよ」
私の不倫が妻に知られていたとは全く予想だにしなませんでした。
確かに15年ほど前から経営研究会の会員で離婚経験のある女性と関係を持ってしまったのです。相手に子供がいたため家に行くわけにいかず逢瀬はホテルだけ。その関係は今も続いています。
母親の擁護に廻った孝憲が「お父さん、その女の人にお金を渡していたでしょう。私達にお金がかかる時期を迎えるので必死の思いでお母さんが貯蓄している一方でお父さんが不倫相手にお金を渡していた事実はどう考えても我慢ができなかったってお母さんは泣きながらいってたよ。
車の中でお母さんの知らない通帳を見つけて。まとまったお金が銀行口座から女性へ振り込まれてた。その時に相手の名前がわかったって。日付からお父さんが海外長期出張の時に手渡しができなくて振り込んだと。それから色々と調べてお母さんは全てを知ってしまったんだ。
ゴルフに行くといって実際は行ってなかったこともあったでしょう。一緒に行っているはずの宮原さんを街で見かけた時は情けなくなりお父さんをまったく信じられなくなったとも。酒井さんと出会わなくても、弥生が手を離れたら離婚しようと決めていたそうだよ。お母さんは知っていて僕たちのために耐えていたんだよ」
一呼吸おいて孝憲が続ける。「お母さんと酒井さんがプロモーション用の企画で擬似恋愛の相手として出会ったのは一年ほど前だそうだよ。プロモーションの企画が「秋に出会って翌年の秋に結婚式を挙げる」という想定だったんだ。だから一年間は疑似恋愛の恋人同士となり撮影チームが2人を追いかける形だね。でもより現実感を出すために2人きりで擬似デートをして動画を撮影してたりして編集会議にも提出したりもした。もちろん手を繋いだり腕を組んで歩くことも当たりのようになったし、呼び方も恋人同士らしく「由美ちゃん」、「達也くん」と呼び合うことが自然だったし、不思議に初対面から構えることなく自分が自分らしくいられる事がお母さんも嬉しかったって。最初のうちは明るくて朗らかな弟のようなに思っていたけど、でも「擬似恋愛デート」を続けているうちに、嘘のない誠実な性格とお母さんの話をよく聞いてくれ、決してお母さんを否定しない心の広さを持った酒井さんに会って話をする事が生き甲斐になったと嬉しそうに言ってた。でもお互いの気持ちを確かめ合ったのはつい最近なんだ」
続けて弥生が妻との話を教えてくれた内容が私に決定的なダメージを与えた。
「ママが私に言ったのはね、『お父さんの不倫を知った時は深く傷ついたわ。悩んで迷って心が折れたの。そんなことは酒井さんに出会うまでは誰にも話せなかったのよ。もちろん、あなたたちにもね。だって人を憎む話をあなたたちにすればパパを憎ませることにもなりかねないでしょ。あなたたちにとっては父親なんだから。だから私にはパパの不倫をあなたたちに話すことには罪悪感があったのよ。
パパの言葉で私の人間性を否定されたように思うこともあったわ。私はそそっかしくて失敗もするでしょ。パパは私の失敗がうれしいような、笑いながらだけど馬鹿にしたような、茶化すような言い方をするときがあるのね。それを私は許せなかった。でもね。酒井さんは私の悪いところも含めて、ありのままの私を受け入れてくれたの。私が失敗しても「その程度で済んでよかったじゃない」と慰めてくれるの。彼は私が既婚者だとの立場も考えてくれて男女の関係を求めなかったわ。ママも撮影用のデートだけど、お話をするだけで幸せを感じることができたの。少し不器用だけど優しく何にでも誠実に向き合ってくれる姿に、これまでに感じたことのない安心感に包まれていることに気が付いたの。間違いなく私は彼から守られているって。ママは酒井さんに出会ってから明日を信じられるようになったの。
撮影が最後に迫ってきたとき、式の一か月前に酒井さんに伝えたの『下の子供がこの春に独立したので家を出ようと決めました。撮影が終わったこの街を離れますって』驚いていたわ。何の不安もない幸せな家庭の奥様だと思ってたって。その三日後の撮影用デートの時に酒井さんから告げられたの。 『プロモーションの結婚式を二人だけの本当の結婚式にしよう、結婚してください』とプロポーズしてくれたの。驚いたわ。まさかと。でもママの心の中に淡い期待があったかもしれないわね。何の迷いもなかったわ。その時、結婚式の日に家を出て彼の元へ行こうと決心したの。二人で幸せになることに決めたのよ』と。
その話をしている時のママはまるで恋する少女のようだったわ」
孝憲が妻の署名押印された離婚届をテーブルの上に置いた。
「お母さんから預かったよ。財産分与は一切いらないし、お母さんの私物はすべて僕と弥生が処分してほしいとのことだよ。弥生が医師国家試験に合格し、大学病院へ勤務したことで自分の決心が固まったようだ」
「お前たちはお母さんの居場所を知っているのか?」
「僕も弥生も知らないんだ。落ちついたら連絡するとは言ってたけど」
「一度お母さんと話したいが」
「うーん、僕たちから電話しても落ち着くまではでないだろうから」
私の不倫もそうだが、子供に教育費などお金がかかる時期にもかかわらす不倫相手にお金渡していたこと。これは妻にとっては耐え難いことだったのだ。
今夜,妻は酒井に抱かれる。
翌日も妻は私からの電話にはでない。
身から出た錆、敗北感と自己嫌悪に観念した私は1週間後に離婚届に署名捺印して役所に提出した。
妻に電話したが相変わらず繋がらない。LINEや他のSNSもブロックされている。
孝憲と弥生には離婚届を提出したこと、妻、いや元妻に連絡がつくようなら教えてあげてほしいと頼んだ。
あれから一年が過ぎた。
弥生からLINEがあった。1枚の写真が添えられていた。そこにはいかにもロサンゼルスらしい太陽の光のなかで穏やかで幸せそうな満面の笑みを湛えた元妻がいた。
「ママは今は戸籍上も『酒井由美』として幸せに暮らしているわ」と。

