集団性行為による共認機能(生存活力・知能)の発展により人類は過酷な自然環境を生き延びた


    
足の指が先祖返りして、それ以前の獣たちと同様、足で枝を掴むことが出来なくなったカタワのサル=人類は、樹上に棲めるという本能上の武器を失った結果、想像を絶する様な過酷な自然圧力・外敵圧力に直面した。
そこで、本能上の武器を失った人類は、残された共認機能を唯一の武器として、自然圧力・外敵圧力に対応し、そうすることによって、共認機能(≒知能)を更に著しく発達させた。(実現論:前史)
このように、有史以前の人類は、現代人の想像を超える凄まじい生存圧力が生じる環境下に置かれたため、当然強い生存期待が、みんなの最大期待として存在しました。
※想像を絶する外圧状況という意味で、極限時代と呼びます。
     
そして、サル時代に獲得した、足の指で枝を掴むという本能上の武器を失った人類が、このような過酷な時代を数百万年も生き延びてこられたのは、唯一残された共認機能に全面的に収束し強化することで、自他の不全を同一視し充足・安心感を得、かろうじて極限的な不全感を和らげる(不全解消)ことができたからなのです。
整理すると、
極限的な生存圧力の環境に晒された⇒強い生存期待がみんなの最大期待として生じる⇒唯一残された共認機能に全面収束し共認充足により不全を和らげようとする⇒すべての行為(性も含めて)が共認充足を得るための方向に収束していくということになります。
つまり、人類特有の性は、性行為そのものが他の哺乳類のように本能次元での行為から、共認次元の行為に上昇しているところに起因しているのです。
もう少し具体的に言うと、性の場面は当然ながら相手合ってのことですので、子孫繁栄という本能的なものに加え、共認機能をフルに稼動した相手との同一視から生じる充足感や安心感を得るための行為としての意味が塗り重ねられているのです。
(例えば、一般哺乳類はごく限られた生殖期にのみ発情するのに対し、人類は年中発情期であることや、セックスの際相手の表情と正対した正常位とするところからも、単なる生殖行為ではなく、共認充足を得るための行為であることがわかります)
また、見方を変えれば、人類の性とは、肉体的(本能的)な充足に限定されるものではなく、見つめ合うことや、身を寄せ合うこと、存在に感謝するなど、お互いを肯定視することから生まれる心の充足や安心感や感謝などの、心のふれあいの領域も含まれています。
目交い
○人間の活力源の原点
人類は、昔から仲間との共感・同一視が常にお互いの安心感を与え合える事が活力源となり、本能を超える機能を積み重ねてこれたんです。
相手を肯定視しようと思った場合、まずは目を見る。同一視から共感、そして共認=同化が出来たとき、心と心が通じ合い、全的な安心感・充足が得られる。
この時、感謝の涙や自然な笑顔が、きっと浮かび上がっているはずです
これが、前段で述べた「目交い」と通じる、人類特有の性の本質であり、太古の昔の極限時代から数百万年間引き継いできているものなのです。
そして、当然現代人もこの構造を下敷きにして生きているのです。
このように人類の性は、共認充足を得るためのものであり、極限時代には共認充足を得ることが最大の生存課題であったことからすると、性こそが生存のための最大の活力源だったのです。
     
     
http://bbs.jinruisi.net/blog/2012/02/1069.html#comments
   

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